「神の委託に応えて」 手束信吾牧師

聖書:創世記1章24節~31節

今日の礼拝は収穫感謝礼拝として献げています。聖書箇所は創世記1章24節以下、天地創造の六日目の場面であります。創世記は、神が第一日目に天地、光、昼、夜。二日目に大空、天。三日目に大地、海、植物。4日目に太陽、月、星。5日目に魚、鳥、六日目に、家畜と獣、そして最後に人をお造りになったと記しています。26節~28節をご覧ください。「・・・・・・・・・・・・・・」。

神様は天地をお造りになる中で、いちばん最後に人間を造り、しかも人間だけが神のかたちに造られた存在であることが、ここからわかります。では、「神のかたちに造られた」とは、どういうことでしょうか?ここは、いろんな解釈がなされるところです。古代エジプトやメソポタミアにおいては、王様が神の似姿とされていました。しかし、創世記は、人は誰しも神の似姿に造られたと言っているのです。つまり、人は皆、尊い、尊厳ある存在として造られているということでしょうか。他の被造物とは違う特別な存在として造られたことは確かでありましょう。

神様はそのような人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言われたのです。この言葉は、いかにも人がすべての被造物の支配者であるような印象を与えます。しかし、この言葉は、決して「人間はこの世界を治め、支配して良いのだ。だから、この世界の自然や資源を自らの目的のために利用して良いのだ」ということを言っているのではないのです。この「従わせよ」「支配せよ」の言葉の本意は、「守りなさい」「管理しなさい」ということなのです。

人間は被造物の中でいちばん最後に造られました。それは、なぜでしょうか?それは、人が生きるためには6日間に及ぶ、すべての被造物が備えられる必要があったからではないでしょうか?天と地、光、海とそこに住む生き物、陸とそこに住む生き物。草や木など、そのような環境が整えられて、初めて人は生きることが出来る。だから、人はいちばん最後に造られたと考えられないでしょうか?

ですから、ある意味、人はとても弱い存在、脆弱性をもつ存在だと言えます。人は自然に対して決して強者や支配者の立場にある存在ではないのです。そうではなくて、人間には神様が造られたこの世界、自然を、保全する責任が課せられたということです。それが、26節や28節で言われていることであって、決して、この自然をお前達の好き勝手に使って良いということではないのです。

しかし、神を神と認めず、この世界を神様がお造りになり、それをご覧になって「きわめて良い」と言われたことを認めない人間が、自然環境を破壊し続けてきた歴史があるのです。そして、そのことに無関心であったり、無頓着であったりする私たちがいるのです。

信仰生活とは、決して個人の心の安寧のためだけにあるのではありません。神様がお造りになった、この世界において、神のかたちに造られたあなたたちは、どう生きるのか?ということが問われるのです。

この収穫感謝礼拝において、私たちは、自然の恵みに助けられて、自分たちが生きていることを覚えます。人があらゆる被造物の中でいちばん最後に造られたのは、生きてゆけるだけの自然環境が整えられて初めて、生きることが可能となる存在だからです。

私たちは自然に助けられて生きている。だから、私たちもまた、この自然をあらゆる搾取や収奪、破壊から守ってゆく責任が創造主なる神様から託されているのです。