2020年9月6日           主日礼拝

「暗闇の中でも」

聖書:出エジプト記13章17節~22節  ヨハネによる福音書8章12節~20節

皆さんは、サーロー節子さんという方をご存じでしょうか?サーローさんは、核兵器禁止条約成立に尽力し、2017年にノーベル平和賞を受けた国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」とともに活動してきた方です。

NHKが今年の8月に、サーロー節子さんにインタビューした記事があります。サーロー節子さんは、1945年8月6日、13歳だったとき、広島で被爆。原爆がさく裂したとき、爆心地から1.8キロの場所で、倒壊した建物の下敷きになりました。「あきらめるな、押し続けろ、光の方にはっていくんだ」…目の前の暗闇の中から聞こえてきたことば、差し込んできた光を信じ、命からがら逃げ出して、生き延びました。親族8人が亡くなりました。…と記事には記されていました。

このインタビューの最後でサーロー節子さんは次のように語ります。「世界のコミュニティーのリーダーシップが非常に不安定で、国際政治がますます険悪になっている。でも大きな目で世界を見ると、歴史を見ると、若い人たちに希望が持てる時代がやってきたという感じを私は持っています。ICANでの活動でも感じましたし、たびたび感じるようになってきています。ですから、目の前の暗闇で絶望することはしていません。若い人たちに対する希望や期待は非常に大きなものになっていることを、長年、生き延びてきた被爆者の1人として若い人たちに覚えていてほしいと思いますね」

皆さん、いかがでしょうか?サーロー節子さんは「目の前の暗闇で絶望しません」と語ります。今、私たちの「目の前の暗闇」の一つは、「コロナ禍」であろうかと思います。「暗闇」は、別の言葉で言うと、「出口が見えない」状態だと言えるでしょう。

このコロナ禍で、特に商売などをされている方々の中には、もろに影響を受け、死活問題だという方が大勢います。しかも、いつ終息するのか、わからない。先が見えない。それまで自分の商売は果たして持ちこたえられるのか?暗闇の中で絶望しそうな人たちがおられます。また、親の経済状態が一気に不安定になったために、またコロナの影響でアルバイト収入がなくなったりして、大学を中退することを考えざるを得ない学生達も出て来ているようです。一生懸命に勉強をして、せっかく合格した大学をそのような形で諦めなくてはならない若者は、まさに「目の前の暗闇で絶望すること」と必死で闘っているのかもしれません。

さて、今日の旧約の聖書箇所は出エジプト記13章17節~22節です。エジプトから出て行くことを、ようやく許されたイスラエルの民ですが、まだまだ安心とは言えない状況の中で、どの道を進めばよいのか迷いの中にあったはずです。多くの場合、人は暗闇の中に置かれた時、一刻も早くそこから抜け出したいと思うものであります。イスラエルの民にとりましても、ペリシテ街道を進むのが一番の近道でした。エジプトでの奴隷生活という暗闇から逃れる最短ルートでした。しかし、神様は彼らを迂回させ、その道を行かせませんでした。なぜなら、ペリシテ街道には、エジプトの要害がいくつもあり、そこを通ろうとすれば、戦闘を覚悟しなければならないからです。けれども、400年もの間エジプトで奴隷であったイスラエルの民には、隷従する生き方が染みついていて、大きな力と戦う勇気はなかったのでありましょう。そのことをご存じであった神様は、その道を迂回させ、荒れ野の道を進ませたのであります。荒れ野においては、何の目印も道しるべもありません。しかし、主なる神は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもってご自身を顕され、彼らの前を先立って、進むべき道を示し、「わたしがあなたがたと共にいる。わたしがあなたがたを導く。」ということを示されたのであります。

続いて、今日の新約の箇所、ヨハネによる福音書8章12節~20節をお開きください。12節をご覧ください。イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」イエス様は、この言葉をどこで語られたかといいますと、20節「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」とあります。

神殿の境内の宝物殿には、賽銭箱が置いてあり、そのそばに荒れ野でイスラエルの民を導いた「火の柱」を表すための、ろうそくが灯されていたそうです。人々は、そこにお金を捧げ、「神様、どうか私を守り導いてください」と祈ったのかもしれません。

イエス様は、その「ろうそくの火」の近くで「わたしは世の光である。」と言われたのであります。「わたしは・・・である」というのは、ギリシャ語では「エゴ― エイミー」という言葉でありまして、偽物を前提として「他のものではなく、この私が…である」というニュアンスを持つ言葉です。

つまり、あなた方を導く光はこの宝物殿にはなく、この私こそが、「この世を照らし、導く光である」とイエス様は言われたのでしょう。このイエス様の発言は、ファリサイ派の人々にとりましては、神への冒涜に聞こえたのでありましょう。すかさず彼らはこう言います。13節「・・・・・」。

ファリサイ派の人々は、イエスには他に証人がいないので、イエスの主張は律法に照らして、真実ではないと言っているのです。それに対して、イエス様はこう反論されます。17節~18節「・・・・・・・・・・」。

つまり、イエス様は「世の光である、わたしについて」証言するのは、私自身と父なる神だと言われるのです。だから、わたしの証言は真実なのだと言われるのです。

けれども、ファリサイ派の人々はイエス様の言葉を理解しません。それが証拠に彼らはこう言いました。「あなたの父はどこにいるのか」。イエス様が「わたしの父」と言う時、それは、父なる神のことを言っているわけですが、ここでファリサイ派の人々は、「肉親の父」のことだと勘違いをしているのです。ですから、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とイエス様が語られても、ファリサイ派の人々は全くその言葉を理解できないのです。

なぜ、彼らはイエス様の言葉を理解できないのか?それは彼らが暗闇の中にいるからです。しかし、彼ら自身は、自分が暗闇の中にいるとは思っていないのであります。むしろ、律法を忠実に守り行っている自分たちは、光の中にいると思っているのです。

ここで、思い出されるのは、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。ヨハネによる福音書1章1節~5節をお開きください。新約163頁です。「・・・・・・・・」。

「はじめに言があった」とあります。この「言」とは、イエス様のことです。そして、この「言」は、「命」であり、同時に人間を照らす「光」でもあると、福音書記者ヨハネは記します。更にヨハネはこう記します。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。

そう、イエス様は人間を照らす光であり、暗闇の中にいる私たち人間を暗闇から導きだそうとして来られたのに、暗闇の中にいる私たち人間はそれを理解しなかったということであります。光は暗闇の中でこそ輝きます。しかし、私たち人間は自分が暗闇の中にいるとは思わない。

むしろ、光の中にいると思い込んでいる。そうすると、イエス様も、イエス様の言葉もわからないのです。自分とは関係の無いものとしてしか、受け取れないのです。ヨハネ福音書1章9節~11節にはこう記されています。「・・・・・・・・・」。

もしかしたら、私たちは自分が大きな試練に遭遇して初めて、自分が暗闇の中にいることに気づくのかもしれません。自分の意思とは無関係に、歩みを中断させられる時こそ、私たちが光なる主を知る時なのかもしれません。

私たちにとって、新型コロナウイルスが暗闇なのではありません。本当の闇は、私たち人間、一人一人の内にあるのです。「ウイルスよりも人間の方が怖い」という言葉を聞きます。自粛警察をはじめ、新型コロナウイルスに感染した人に対する差別や誹謗中傷がなされている現実を指して言われる言葉です。「ウイルスよりも人間の方が怖い」…

そう、本当の闇は私たち人間の中にあるのですが、私たちはそのことにさえ気づかない。まさに、私たちは暗闇の中を歩んでいる。そのような私たちにイエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と呼び掛けられるのです。

私たちが暗闇を抜け出す方法は一つ。それは、私たちに呼びかける声の方へと歩くことです。闇の中で何も見えない時、私たちは自分に向かって呼びかける声を頼りにすると、暗闇の中でも歩むことができます。私たちを命へと導く言葉であるイエス様。そのイエス様の呼びかけに聴き、歩んでゆくことこそが、イエス様の言われた「命の光を持つ」ことであることを覚えたいと思います。そして、「命の光を持つ」とき、私たちは暗闇の中でも絶望せずに、歩んで行けることを心に刻みたいと思います。

<祈り>天の父なる神様、あなたは暗闇にいる私たちを照らし、命へと導くために、独り子イエス様を遣わしてくださいました。しかし、自分が暗闇にいることに気づいていない私たち人間は、光なるイエス様を受け入れず、十字架に付けて殺してしまいました。それは、まさに闇がこの世を覆う出来事でしたが、神様はイエス様を復活させてくださり、闇が打ち勝つことのできない光を輝かせてくださいました。この復活の光があるから、わたしたちは目の前の暗闇で絶望せずに、歩んでゆくことが出来ます。私たち一人一人がこの与えられた光をそれぞれの場所で輝かせていくことができますよう、聖霊の助けをお与えください。この祈りをイエス様のお名前によって御前にお捧げいたします。アーメン。