説教要約「神の秘められた計画」 手束信吾牧師

箴言3章13~20節  ローマの信徒への手紙11章25~36節

当時、ローマの教会におきましては、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の両方がおりました。けれども、異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者を軽んじる傾向があったのではないかと思われるのです。異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者に対して「お前たちの仲間が、イエス様を殺したのだ。しかも今なお、お前たちの仲間はキリストの福音を頑なに拒み続けている。だから、神はお前たちユダヤ人をあきらめて、俺たち異邦人に救いをもたらし、俺たちを豊かに祝福しておられるのだ。お前たちは、かつては選ばれていたかもしれないが今は捨てられている。しかし俺たちは、かつては捨てられていたかも知れないが、今は選ばれているのだ」と、そのような思い上がった考えを持つ者もいたのかもしれません。

ですから、パウロはそのような考えをもつ異邦人キリスト者に対して、このように戒めるのです。25節をもう一度ご覧ください。「・・・・・・・・・」。ここで、一体パウロは異邦人キリスト者に対して何を言わんとしているのでしょうか?

それは、こういうことだろうと思います。あなたたちは自分が、あたかも神のご計画を知っているかのように、軽率に「神はユダヤ人をあきらめて、自分たち異邦人を選び、祝福しておられるのだ。」などと言ってはならないということだと思います。そして、そうならないためにも、あなたがた異邦人に、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」とパウロは語るのです。

では、パウロの言う、神の秘められた計画とは、どのようなものなのでしょうか?25節後半から27節まで「・・・・・・」。つまり、パウロの言う、神の秘められた計画とは、「確かに神の救いの業はイスラエルに拒否されたが、そのことによって異邦人に救いが及ぶようになり、その救いは異邦人を経由して、再び全イスラエルの上にもたらされるのだ」ということです。すなわち、神はイスラエルをあきらめたり、お見捨てになったわけではないということです。

パウロはこのことを更に展開して言います。28節―29節「・・・・・・・・・」。この「神の賜物と招きとは取り消されないものです」というのが、この箇所において、パウロがローマの信徒たちにしっかりと受け止めてもらいたかったことの一つであります。

ところで、この「秘められた計画」という言葉は、元のギリシャ語では「ミュステーリオン」という言葉が使われています。この言葉が英語の「ミステリー」の語源です。そう、神の計画はミステリーなのです。つまり、わたしたち人間には計り知れないものだということです。

パウロ自身はユダヤ人で、同胞ユダヤ人が救われるためならば、「キリストから離され、神から見捨てられたものとなっても良いとさえ思っています」と言うほどでありました。 けれども、パウロの熱い思いとは裏腹に、ユダヤ人はかたくなにイエス・キリストの福音を受け入れない現実がありました。この現実にぶつかって、パウロは神に問い続けたのでしょう?「主よ、なぜですか?どうしてですか?」と祈り続けたのでしょう。

そこで、パウロが神に示されたことは、「イスラエルがかたくなになったのは、異邦人が救われるためだったのだ。すべての人を憐れむために神は人を不従順の状態に閉じ込められたのだ」ということであったのです。

これは単に、異邦人もユダヤ人も皆、神の憐みの対象なのだということを言っているにとどまりません。パウロは、「異邦人とユダヤ人という、異なる者たちがキリストにあって互いに愛し合って一つになる」ということ、それが神の秘められた計画だと示されたのだと思います。この神の秘められた計画を知らされたとき、パウロの口をついて出てきた言葉が、33節の言葉です。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。

私たち人間には計り尽くせない神の知恵があると聖書は言います。そのことをわきまえるとき、私たちは人生の様々な思わぬ出来事によって、自分の計画が狂わされ、変更を余儀なくされ、あるいは頓挫させられたと思う時でも、そして「どうして」「なぜ」と答えの出ない問いに苛まれる時でも、人知をはるかに超える「神の秘められた計画」がきっとあるのだと信じて、それに委ねることができるとすれば、どうでしょう。

このような態度も、神が授けてくださる一つの「知恵」なのかもしれません。「知恵は、それをつかむ人にとって命の木。知恵を保つ人は幸いである。」(箴言3章18節 聖書協会共同訳)

パウロがそうであったように、「神の秘められた計画」や「神の知恵」が示されるまでには、数々の苦難と忍耐、そして、それでもなお神に従おうとする信仰と祈り、そして、何より聖霊の照らしがあってこそのことであります。それが示される時「ああ」とパウロが感嘆の声を漏らしたように、私たちもまた、神への畏れと驚きと共に、これまでの悩み苦しみが賛美と感謝へと変えられることを信じて歩みたいと思います。