「私たちを贖う神」 手束信吾牧師
聖書:イザヤ書44章6~17節 マタイによる福音書23章25節~36節
昨日、10月31日は宗教改革記念日でした。ルターの言葉にこういうものがあります。「偶像とは柱や像ばかりではない。むしろ、神を信じない心が、聖書の根拠なしに、神について自分自身で案出した各人の信仰が偶像なのである。」 これは、明らかに私たちキリスト者に向けられた言葉であります。自分ではキリスト者のつもりでも、いつのまにか偶像礼拝に陥っている危険性を指摘したものだと言えましょう。
さて、今日の旧約の箇所はイザヤ書44章6節~17節です。捕囚の民は、バビロンの地にあって、いわゆる偶像に取り囲まれて暮らしているのです。当時、国と国との闘いは、自分の国の神と相手の国の神との闘いでもあると見做されました。そういう状況にある捕囚の民に対して、第二イザヤは、イスラエルの神は、他に比べうる者のない、この歴史を支配したもう神であり、その神があなた方を贖うと預言し、だから、あなた方は「恐れるな。怯えるな」と呼びかけるのです。
そして、今度は逆にバビロンの神々とその神々への信仰を批判する言葉を述べます。それが9節以下になります。第二イザヤは言います。彼らは同じ一本の木から、一方では、それを燃やして暖を取ったり、煮炊きをするために利用し、他方では、それで偶像を彫り、それを拝む・・・と。
ここには偶像礼拝の本質が描き出されています。それは「自分」こそが、第一のものであり、「自分」のためには神すらも造り出す人間の姿です。そして、そこで拝まれるのは、実際には木で造った偶像ではなく、それを造り出した自分自身に過ぎないのです。
私たちキリスト者は、石や木で造った像を拝むとなどということはありません。しかし、キリスト者でも、たとえば、愛情、金銭、成功、権力、あるいは、安定、安全など、神以外のものを究極的な対象としてしまうことはないでしょうか。しかも、それは自分の外側にあるのではなく、自分の内側にあるものなのです。
さて、今日の新約の箇所、マタイによる福音書23章25節以下をご覧ください。ここで、イエス様は自分たちの信仰生活は正しいと信じて疑わない律法学者たちとファリサイ派の人々に対して、「あなたがたは、外見上は、外側は、神の掟に歩んでいるように装っているが、内側は、偶像で満ちている」と言っているのでありましょう。
そして、この律法学者やファリサイ派というのは、私たち自身の姿であるかもしれません。ある意味で、信仰における「堕落」とは、「どこか高い所から落ちる」というような、はっきりした経験として起るよりも、むしろ、「自分自身に留まり続けようとする」というような現象として起る場合が多いのではないでしょうか?しかし、現状維持のまま信仰が緩慢な速度で腐敗していく状況には、私たちはなかなか気づこうとしないのではないでしょうか?
だからこそイエス様は、知らず知らずのうちに、ある意味で偶像礼拝に陥ってしまっている律法学者やファリサイ派の人々に、「あなたたちは今、危険な所に立っているぞ。危ないぞ」と警告しておられるのです。
私たちの信仰はつねに堕落し、腐敗する可能性を含んでいます。しかし、私たちはなかなかそのことに気づけないのです。もしかしたら、牧師のような立場にいる者がいちばん気づきにくいのかもしれません。
宗教改革の時代、教会の一つの合い言葉のようにして掲げられた言葉に、「教会は御言葉によって絶えず改革され続けなければならない」というのがあります。私たちもまた日々、御言葉によって、自らの信仰を、すなわち自分が何を究極的なものとし、自分がどのように生きているのかを問い直す必要があります。そして日々、御言葉を聞く中で、私たちに示されることは、人間は堕落を免れないが、その堕落した人間のために、イエス様が十字架に架かり、私たちを贖い出されたということであります。
イスラエルがバビロンに滅ぼされたのは、イスラエルの神ヤハウェがバビロンの神々に敗れたからではなく、イスラエルの民がまさに、偶像礼拝に陥り、それにどっぷりと浸かっていたからに他なりません。イスラエルの信仰が腐敗し、堕落していることを預言者達は厳しく指摘しましたが、それでもなお、イスラエルの民はイスラエルの神に頼ることをせず、神以外のもの、たとえば他国との軍事同盟などに頼り、偶像から離れることができなかったのです。
もう一度イザヤ書44章6節~8節をご覧ください。「・・・・・・・」。 ここで、第二イザヤはイスラエルの神を贖う者として提示しています。しかも、ここには、悔い改めよとの呼びかけはありません。ただ、一方的に、イスラエルの神は、御自身を捨てて、偶像に走った民を贖う者なのだという宣言があるだけです。だから、恐れるな。怯えるなという呼びかけがあるだけです。
つまり、第二イザヤは、神は人間の悔い改めに、先立って罪を赦すという福音を語っているのです。そして、イスラエルはその事実を自らの歴史の中で体験したではないかと言うのです。そう。イスラエルがエジプトから脱出したのも、今や、バビロンからの解放が迫っているのも、イスラエルの悔い改めに先立って、憐れみ深い神がなさったことであるということが語られているのです。
このことを使徒パウロはこのように表現しました。ローマの信徒への手紙5章8節~11節をお開きください。(新約279ページ)「・・・・・・・・・・・・・」。
私たちは、私たちを救い出そうとされる、神の愛の呼びかけである御言葉に耳を傾けつつ、日々、新たに自分が作り変えられていくことに、喜んで身を委ねたいと思います。